西郷隆盛の名言一覧|世界の偉人たちの名言・格言~成功者の言葉

西郷隆盛|26件。

西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体: 西鄕隆盛、文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。

西郷隆盛像(さいごうたかもりぞう)は、日本の武士・軍人・政治家である西郷隆盛(1828年(文政11年) - 1877年(明治10年))の顕彰を目的として建立された銅像。 本項では、特に著名な3体の西郷像について解説する。 東京・上野の西郷銅像 東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が始まった。宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は西郷の死後21年を経た1898年(明治31年)12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論である。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

もうここらでよか

西郷隆盛 - さいごう たかもり

事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

小人は己を利せんと欲し、君子は民を利せんと欲す。己を利する者は私、民を利する者は公なり。公なる者は栄え、私なる者は亡ぶ。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

志を貫くためには、玉となって砕けることを本懐とすべきであって、志を曲げて瓦となってまで、生きながらえるのは恥とする。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

功のあった人には禄を与えて、能力のある人には位を与えよ。

西郷隆盛 - さいごう たかもり

およそ思慮は平生、黙座静思の際においてすべし。