福澤諭吉の名言一覧|世界の偉人たちの名言・格言~成功者の言葉

福澤諭吉|34件。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

ペンは剣よりも強し

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

難きを見て為さざるは、丈夫の志にあらず。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

政治は悪さ加減の選択である。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

学問は米をつきながらも出来るものなり。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

空想はすなわち実行の原案

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

未だ試みずして、先ず疑うものは、勇者ではない。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。

福澤諭吉 - ふくざわ ゆきち

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体:福沢 諭吉、天保5年12月12日(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59年(1984年)から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。 諱は範(はん)。字は子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。 現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。 出生から中津帰藩、長崎遊学 天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目、通称 ほたるまち)にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれる。

福澤諭吉旧居(ふくざわゆきちきゅうきょ)は、福澤諭吉が幼少年期を過ごした大分県中津市にある旧居である。 1835年(天保5年)大坂(現大阪市)の中津藩蔵屋敷で生まれた福澤諭吉は、1歳6か月の時、父の死去により帰藩し、19歳までこの場所で過ごした。 諭吉は、近くに家塾を開いた中津藩儒官白石照山に師事して儒学を学んでいたが、兄の薦めで蘭学を学ぶために長崎へ旅立った。 現存する家は16歳の時に買って移り住んだもので、母屋の他、自らが改造して二階を勉学に使った土蔵が残っている。幼少の頃の家はすぐ前の土地にあった。諭吉は、幼少の頃の家の間取り図を自ら描いて、忘れないようにしようとした。 1971年6月22日に国の史跡になった。現在、隣に福澤記念館を建て「学問のすすめ」の原本や遺品などを展示している。 所在地 大分県中津市留守居町586番地  (JR中津駅より徒歩15分)隣地に白石照山記念碑や、レストハウスがあり、近くには中津城(扇城)や合元寺などの寺院が集中している寺町がある。