伊達政宗の名言一覧|世界の偉人たちの名言・格言~成功者の言葉

伊達政宗|11件。

伊達政宗 - だて まさむね

まともでない人間の相手をまともにすることはない。

伊達政宗 - だて まさむね

朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

伊達政宗 - だて まさむね

人がこの世へ生まれて百万長者も、最後に及んで要する所は、方六尺の穴一つ、戒名を刻んだ石碑一つで、家も、倉も、金も、地所も、妻も、子も、すべてを残して、死出の旅路をただ一人辿る。曾(かつ)て我が者と思ったもの、一として我に伴うはない。我は客人であったのである。

伊達政宗 - だて まさむね

物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。

伊達政宗 - だて まさむね

大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。

伊達政宗 - だて まさむね

今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

伊達政宗 - だて まさむね

馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。

伊達政宗 - だて まさむね

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

伊達政宗 - だて まさむね

仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らずば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。

伊達政宗 - だて まさむね

わきて釣りには他念なきものなり。太公望、おもしろがりたるも道理かな。罪も報(おくい)も後の世も忘れはてておもしろやと、げにさもあらずるものを。

伊達政宗 - だて まさむね

気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名・伊達氏の第17代当主。仙台藩初代藩主。 伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれた嫡男。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。兜は弦月前立黒漆塗六十二間筋兜。 生涯 出生から初陣まで 永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で生まれた。幼名は梵天丸天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。史料上にも正宗と書かれたもの幾つかがあるがこれは誤記である。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。

伊達 政宗(だて まさむね/いだて まさむね)は、南北朝時代から室町時代の大名。 天授3年(1377年)に家督を相続。天授6年(1380年)頃から父・宗遠と置賜郡に侵攻し、元中2年(1385年)には長井氏を滅ぼして、置賜を伊達氏の拠点とした。以降、奥州仕置まで200年余りにわたって置賜は伊達氏の支配下に置かれた。 応永7年(1400年)に鎌倉公方・足利満兼が弟の満貞(稲村公方)と満直(篠川公方)を奥州に派遣して伊達家に対し領土割譲を求めてきた事を拒み、大崎氏などと同盟して鎌倉方の結城満朝(白河満朝)や上杉氏憲と戦った(伊達政宗の乱)。応永9年(1402年)鎌倉府との抗争により出羽国の諸氏(寒河江氏・白鳥氏など)に陸奥国苅田城(宮城県白石市?)を包囲される。同年出羽国高畑城(現在の山形県高畠町)に入り、応永12年(1405年)に同地で没した。 その後 事績から政宗は伊達家中興の祖と称えられるようになり、初代陸奥仙台藩主となる藤次郎政宗は、この中興の祖にあやかり命名された。