シャルル・ド・モンテスキューの名言一覧|世界の偉人たちの名言・格言~成功者の言葉

シャルル・ド・モンテスキュー|22件。

シャルル・ド・モンテスキュー

多くの場合、成功は成功するまでの所要時間を知っているか否かにかかっている。

The success of most things depends upon knowing how long it will take to succeed.

シャルル・ド・モンテスキュー

偉大なことを成し遂げる人は、つねに大胆な冒険者である。

It is always the adventurous who accomplish great things.

シャルル・ド・モンテスキュー

ただ幸福になりたいと望むだけなら簡単だ。しかし他人よりも幸せになりたいというのならば、それは困難だ。我々は、他人はみんな実際以上に幸福だと思っているからだ。

If we only wanted to be happy, it would be easy; but we want to be happier than other people, and that is almost always difficult, since we think them happier than they are.

シャルル・ド・モンテスキュー

才能とは、神からひそかに与えられ、しかも、我々がそれとは知らずに明るみに出す、授かり物である。

Talent is a gift which God has given us secretly, and which we reveal without perceiving it.

シャルル・ド・モンテスキュー

私たちは三つの教育を受ける。一つは両親から。もう一つは教師から。残りの一つは社会から教えられる。そして、この三番目は、初めの二つの教えにすべて矛盾するものである。

シャルル・ド・モンテスキュー

自由とは、法の許す限りにおいて行動する権利である。

Liberty is the right of doing whatever the laws permit.

シャルル・ド・モンテスキュー

宗教を愛し、それを守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり、迫害したりする必要はない。

In order to love religion and fulfil its behests, it is not necessary to hate and persecute those who are opposed to it.

シャルル・ド・モンテスキュー

真に偉大な人間になるためには、人々の上に立つのではなく、彼らと共に立たなければならない。

To become truly great, one has to stand with people, not above them.

シャルル・ド・モンテスキュー

真に知的な人は、他の人が知識として有しているだけのことを、身体で感得している。

シャルル・ド・モンテスキュー

人間は考えることが少なければ少ないほど余計にしゃべる。

The less men think, the more they talk.

シャルル・ド・モンテスキュー

友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、お返しに大きな親切を期待する契約である。

Friendship is an arrangement by which we undertake to exchange small favors for big ones.

シャルル・ド・モンテスキュー

人間は死を嘆くのではなく、誕生を嘆くべきだろう。

A man should be mourned at his birth, not at his death.

シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu、1689年1月18日 - 1755年2月10日)は、フランスの哲学者である。本名は、シャルル=ルイ・ド・スゴンダ(Charles-Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu)で、ラ・ブレード(La Brède)とモンテスキュー(Montesquieu)を領地とする男爵(baron)でもあった。 生涯 フランス南西部にあるボルドー近郊で生まれた。彼が7歳の時、母が逝去。母の遺産を継承し、ラ・ブレード男爵となる。ボルドー大学法学部卒業後、1709年からパリに遊学。1713年末、父の訃報により帰郷する。翌年、25歳でボルドー高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継承する。しかし、実務面には無関心で、1721年には、匿名で『ペルシア人の手紙』を出版。1726年、37歳で、ボルドー高等法学院副院長の官職を辞職。