歌番号99-歌人:後鳥羽院(ごとばいん)

小倉百人一首

上の句

人も惜し ひともおし
人も恨めし ひともうらめし
あぢきなく あじきなく

下の句

世を思ふ故に よをおもうゆえに
もの思ふ身は ものおもうみは

人も惜し 人も恨めし あぢきなく

世を思ふ故に もの思ふ身は

歌人

後鳥羽院 ごとばいん

音声で読み上げ


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後鳥羽院とは

『後鳥羽天皇』より : 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。 高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 「神器なき即位」 寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題や政務の停滞を解消するために安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は再度占わせて「吉凶半分」の結果を漸く得たという。

後鳥羽院とは

宮内卿(くないきょう)または後鳥羽院宮内卿(ごとばのいんくないきょう、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の歌人である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。父は右京権大夫源師光(大納言師頼の子)、母は後白河院の女房安芸。兄に源泰光、源具親がいる。 生涯については、はっきりしたことがほとんどわからない。その歌才によって後鳥羽院の召しにあい院のもとに女房として出仕、1200年(正治2年)から1204年(元久元年)までの短期間に、後鳥羽院歌壇で活躍し、『新古今和歌集』以降の勅撰集、歌合等に多数の作品を残している。以降の消息は不明で、『無名抄』や『正徹物語』の記述から、二十歳前後で夭折したとする説が一般的。 逸話 若手女流歌人として、俊成卿女と宮内卿が並び称される存在だった。宮内卿は、歌合のような晴の席の前には、草子や巻物をとり広げ、灯りをともして夜も昼もなく予習に励んだ。和歌に熱中しすぎて体をこわし、父から「なにごとも命あってのこと」と諌められたが、それでも言うことを聞かず、ついに若くして命を落とした。


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