歌番号89-歌人:式子内親王

小倉百人一首

上の句

玉の緒よ たまのおよ
絶えなば絶えね たえなばたえね
ながらへば ながらえば

下の句

忍ぶることの しのぶることの
弱りもぞする よわりもぞする

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば

忍ぶることの 弱りもぞする

歌人

式子内親王 しょくしないしんのう

音声


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式子内親王とは

式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう、久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日))は、平安時代末期の皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法。 平治元年(1159年)10月25日、内親王宣下を受け斎院に卜定。以後およそ10年間、嘉応元年(1169年)7月26日に病により退下するまで賀茂神社に奉仕した。 退下後は母の実家高倉三条第、その後父・後白河院の法住寺殿内(萱御所)を経て、遅くとも元暦2年(1185年)正月までに、叔母・八条院暲子内親王のもとに身を寄せた。同年7月から8月にかけて、元暦大地震とその余震で都の混乱が続く中も、八条院におり、准三宮宣下を受けている。八条院での生活は、少なくとも文治6年(1190年)正月までは続いた。 後に、八条院とその猶子の姫宮(以仁王王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされた。


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