歌番号38-歌人:右近

小倉百人一首

上の句

忘らるる わすらるる
身をば思はず みをばおもわず
誓ひてし ちかいてし

下の句

人の命の ひとのいのちの
惜しくもあるかな おしくもあるかな

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし

人の命の 惜しくもあるかな

歌人

右近 うこん

音声


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右近とは

名前=右近 徳太郎
本名=
愛称=
カタカナ表記=ウコン トクタロウ
アルファベット表記=UKON Tokutaro
原語名=
原語表記=
生年月日=1913年9月23日
出身地=兵庫県
身長=173cm
体重=
血液型=
所属チーム名=
ポジション=フォワード (サッカー) FW、ミッドフィールダー HB、ディフェンダー (サッカー) FB
背番号=
利き足=
クラブ=
出場(得点)=

右近とは

『近衛府』より : 近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。 変遷 天平神護元年(765年)2月3日、授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同2年(807年)4月22日には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。因みに、外衛府というものもあったが、772年(宝亀3年)に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。 内部官職 大将 左右に各1名。権官はない。四等官における近衛府の長官(カミ)に相当する。天平神護元年(765年)2月3日、近衛府設置とともに、正三位の官位相当。延暦12年(793年)、従四位上に官位相当が降格し、さらに、延暦18年(799年)4月27日に従三位の官位相当に昇叙する。

右近とは

『近衛府』より : 近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。 変遷 天平神護元年(765年)2月3日、授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同2年(807年)4月22日には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。因みに、外衛府というものもあったが、772年(宝亀3年)に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。 内部官職 大将 左右に各1名。権官はない。四等官における近衛府の長官(カミ)に相当する。天平神護元年(765年)2月3日、近衛府設置とともに、正三位の官位相当。延暦12年(793年)、従四位上に官位相当が降格し、さらに、延暦18年(799年)4月27日に従三位の官位相当に昇叙する。

右近とは

『近衛府』より : 近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。 変遷 天平神護元年(765年)2月3日、授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同2年(807年)4月22日には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。因みに、外衛府というものもあったが、772年(宝亀3年)に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。 内部官職 大将 左右に各1名。権官はない。四等官における近衛府の長官(カミ)に相当する。天平神護元年(765年)2月3日、近衛府設置とともに、正三位の官位相当。延暦12年(793年)、従四位上に官位相当が降格し、さらに、延暦18年(799年)4月27日に従三位の官位相当に昇叙する。

右近とは

『近衛府』より : 近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。 変遷 天平神護元年(765年)2月3日、授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同2年(807年)4月22日には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。因みに、外衛府というものもあったが、772年(宝亀3年)に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。 内部官職 大将 左右に各1名。権官はない。四等官における近衛府の長官(カミ)に相当する。天平神護元年(765年)2月3日、近衛府設置とともに、正三位の官位相当。延暦12年(793年)、従四位上に官位相当が降格し、さらに、延暦18年(799年)4月27日に従三位の官位相当に昇叙する。

右近とは

『近衛府』より : 近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。 変遷 天平神護元年(765年)2月3日、授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同2年(807年)4月22日には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府となる。因みに、外衛府というものもあったが、772年(宝亀3年)に廃止され、近衛府と中衛府に分配された。 内部官職 大将 左右に各1名。権官はない。四等官における近衛府の長官(カミ)に相当する。天平神護元年(765年)2月3日、近衛府設置とともに、正三位の官位相当。延暦12年(793年)、従四位上に官位相当が降格し、さらに、延暦18年(799年)4月27日に従三位の官位相当に昇叙する。

右近とは

『近衛大将』より : 近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。 天平神護元年(765年)の近衛府設置時には正三位の官位相当。延暦12年(793年)に従四位上に降格したが、6年後の延暦18年に従三位に昇格し、定着する。 古くは参議以上の兼務であったが、平安時代中期以後には大臣や大納言が兼任するのが一般的になったため正三位以上の者が就くことが多く、内大臣が空席になると大納言のうち席次が下位でも近衛大将を兼官する者が昇進したことから、武官としての実質を失っても公卿が兼帯を渇望する官だった。

右近とは

右近(うこん、生没年不詳)は、平安時代中期の女流歌人。父は右近衛少将藤原季縄。 醍醐天皇の中宮穏子に仕えた女房で、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順(みなもとのしたごう)などと恋愛関係があった。960年(天徳4年)と962年(応和2年)の内裏歌合・966年(康保3年)の内裏前栽合(だいりぜんざいあわせ)などの歌合に出詠、村上天皇期の歌壇で活躍した。 『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に入集している。 小倉百人一首 38番 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな(「拾遺和歌集」恋四870) 一説によると、この歌の相手は藤原敦忠と言われている。 関連項目 女房三十六歌仙。


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